11.03.22.吉祥寺(本駒込3丁目)榎本武揚墓
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2012年mixiフォトコメント
03月24日 13:40
●榎本武揚――
天保7(1836)年、下谷御徒町生まれ。
1847年、昌平黌入学。のち、中浜万次郎の塾で学ぶ。
1854年、箱館奉行 堀利煕の小姓としてはじめて蝦夷の大地を踏み、樺太探検に従う。
1856年、長崎海軍伝習所2期生。
1858年、築地軍艦操練所、教授方出役。
1862年、開陽丸建造監督を兼ね、オランダ留学。当時最高レベルの学問を吸収していく。
※日本人初の、モールス信号技術習得者。
1866年、開陽丸を回航し帰国。開陽丸船将~軍艦役~軍艦頭並。
1868年、幕府海軍副総裁。
――――鳥羽伏見の戦いを脱出する徳川慶喜を江戸まで送る。同時に、大坂城にあった18万両も艦隊に積み込んでいる。
※のちの活動資金。
1869年、5月16日、切腹して同志1000人の命を救おうとするが、周囲に止められ断念。自身が官軍に降伏、謝罪することによって同志たちの命乞いをすることにした。戊辰戦争終結。
※蝦夷共和国の要人(旧幕閣、幕臣)たちが断罪されずに済んだのは、黒田清隆が頭を丸めて助命嘆願に奔走したから。
1872年、3月6日、特赦で釈放。3月8日、開拓使四等出仕を命ぜられる。
1874年、海軍中将 兼 特命全権公使としてロシアへ。約1年間の交渉ののち、樺太・千島交換条約締結。
1878年、若い日本人留学生ふたりとシベリア横断旅行を敢行。ロシア人でさえ旅行しようなどと思わない未踏の原野。
※これは単なる好奇心や冒険心によるものではなく、ロシアの風土や国情を調査するのが目的だった。ロシアの首都、サンクト・ペテルブルクからウラジオストックまで、65日かけて、馬車と船で約1万キロを踏破した。(西比利亜日記)
※シベリア横断を初めて行ったのは日本人、榎本武揚。
――――逓信、文部、農商務の各大臣を歴任する。
2012年03月24日 15:04
↑シベリア横断を初めて行った、て違った気がするなぁ……。テメエで書いといてナンデスガ笑 十数年前のレポートですf(^ω^;
Albums: 東京都2文京区/武州江戸
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