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永平寺(福井県吉田郡永平寺町)松平廟

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Photos: 永平寺(福井県吉田郡永平寺町)松平廟

Photos: 永平寺(福井県吉田郡永平寺町)山門 Photos: 永平寺(福井県吉田郡永平寺町)淋汗

墓参不可です。



mixiアルバム「浅草橋/柳橋」コメントコピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000051284251&owner_id=32815602
2012年02月23日 00:15
●松平忠昌――
慶長2年12月14日(1598年1月21日)生まれ。
幼名は虎松、虎之助。5歳の頃より秀康から永見吉次(毛受忠左衛門、のち永見志摩)らの家臣を附属された。
慶長12(1607)年、祖父 家康、叔父 秀忠に謁見、秀忠の側近くで養育される。
同年、叔父 頼房と同じく、家康側室の英勝院の養子となり、11月、上総姉崎藩1万石を与えられる。
武勇に優れた血気盛んな性格で、大坂冬の陣の際は秀忠の側で随行した。
慶長20(1615)年正月、元服。大阪夏の陣に参戦するために急いたという。従四位下侍従に叙任、伊予守と称する。
兄 忠直軍の一角を占めて出陣。大坂八町一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている。
この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。
この活躍により、常陸下妻藩主であった頼房の水戸転封の後任に、下妻藩3万石へ加増移封された。
翌元和2(1616)年、松平忠輝改易のため信濃松代藩12万石へ移封。
元和4(1618)年、越後高田藩25万石へと加増移封。
元和9(1623)年、2代秀忠と仲が悪く、粗暴な一面があったなどとされる兄 忠直が「不行跡」を理由に配流処分となる。
忠昌は幕命により、藩領のうち越前北ノ荘(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする武辺者の家臣105騎(幕命で忠直家臣団より選抜)を継承、高田から随従の300騎を併せ、新たに福井藩の家臣団を形成して藩領を相続した。
当初、忠直嫡子 仙千代(後の松平光長)の行く末を思いやって相続を固辞したが、幕府は仙千代に対しては別に領地を与えるとしたため、忠昌は本家を相続することとした。
仙千代には越後高田に26万石が与えられる。
寛永3(1626)年、正四位下参議。
武勇に優れていたために武を好み、槍術師・剣術師・柔術師・弓術者・砲術師・軍学者などを多数召抱えた。大谷吉継の孫大谷重政、真田昌輝の子真田信正など、改易・絶家となった大名の子孫を召し抱えている。
7月忠昌入部ののち、居城周辺の街、北ノ荘は福居(後に福井)と改名。また、越前国は複数の藩に分割された。
(「北」が敗北に通じるということで。福井城中の井戸に由来し、街の地名を「福居」と改めた。のち、元禄時代に福井となる)。

・福井藩、越前福井50万石が秀康次男 忠昌。越前松平本家。
(支藩、越後国糸魚川藩1万石。)
・丸岡藩、越前丸岡4万6千石が附家老の本多成重に。独立。
・大野藩、越前大野5万石が秀康三男 直政。のち松江松平家(出雲国松江藩18万石)。
(出雲国広瀬藩3万石、出雲国母里藩1万石。)
・勝山藩、越前勝山3万石が秀康五男 直基。のち前橋松平家(上野国前橋藩17万石)。
※結城秀康は松平姓を名乗らなかった説あり。
※初代 直基は結城氏の名跡を引き継ぐが、2代目には松平姓へ戻っている。家紋のみ結城氏の巴紋・桐紋を使った。
姫路藩、山形藩、白河藩、川越藩など何度も転封を繰り返させられた。
・木本藩、越前大野郡内の木本2万5千石が秀康六男 直良。のち明石松平家(播磨国明石藩8万石)。
・高田藩、越前高田26万石、秀康長男嫡子 光長。のち津山松平家(美作国津山藩10万石。
※こちらが越前松平宗家であるという問題が生きている。

寛永11(1634)年、3代家光が上洛の際、随従した。
同年、領地朱印状を拝領。それによれば同年8月時点での所領は50万5280石。
寛永14(1637)年、弟 直良の越前木本藩から越前勝山藩への移封に伴い、幕府より木本藩2万5千石の旧領のうち2万石を加増される。
正保元(1644)年、同じく直良が勝山3万5千石から越前大野藩5万石へ移封後、勝山3万5千石を幕府より“預領”として預けられた。
同年、島原の乱には出兵の命は下らず、見舞いと称し藩士12人を派遣した。
寛永20(1643)年、異国船改めのため三国湊に番所を建てる。
正保2(1645)年8月1日、江戸霊岸島の中屋敷にて死去。葬儀の後、家臣7名が殉死(追腹)している。法名は隆芳院殿郭翁貞真大居士。
墓地は永平寺。また子の光通が開基となった大安禅寺にも、藩祖で父の結城秀康らと並んで墓がある。
忠昌の死後、福井藩は家督相続問題などから次第に所領を減封されていった。
結城秀康は、元の下総国結城郡に加え、越前国北ノ庄(福井)67万石を与えられ、75万石。


※おまけ。
●江戸屋敷――
忠昌は家督相続後、結城秀康から忠直に受け継がれた麹町屋敷(東京都麹町)は相続していない。これは当時、忠直の息子の仙千代やその他妻妾らが住んでいたため、それらを気遣ってのことともされるが、そもそも当時既に越後高田25万石という立派な大名であった忠昌は、江戸城大手門至近の龍ノ口(現在の東京都大手町)に立派な屋敷を構えていて、移転の必要がなかったためでもある。
現在その遺構建築物は残っていないが、壮麗な建物は模型復元され、江戸東京博物館に常設展示されている。また、江戸を代表する大名屋敷として、出光美術館蔵の「江戸名所図屏風」に松平伊予守上屋敷が、国立歴史民俗博物館蔵の「江戸図屏風」には他の大藩の壮麗な屋敷と共に松平伊予守上屋敷と推測同定される屋敷が描かれている。
寛永11(1634)年、龍ノ口上屋敷とは別に、中屋敷として江戸霊岸島(中央区新川2丁目)に浜屋敷地を賜った。三方を堀に囲まれたこの浜屋敷の跡地は「越前堀」と呼ばれ、現在跡地にある越前堀児童公園に、発掘された石垣が保存されている。
下屋敷は本所中之郷(墨田区役所)にあった。

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